会津芦ノ牧温泉 新湯
〒969-5147 福島県会津若松市大戸町芦ノ牧516
↑雪の中の新湯
湯を大切にする心で皆様をおもてなし。湯の力。それが私たちの誇り
源泉温度60℃の硫酸塩泉は湯冷めしにくく、傷や火傷、皮膚病に抜群の効能。
最高A5ランクの福島牛、自慢の鯉のうま煮、会津桜刺し、こづゆ等会津郷土料理でおもてなし。笑顔と温泉で心身共に温まる宿。
会津高原ペンションはらっぱ
〒967-0315 福島県南会津郡舘岩村高杖原453
↑尾瀬へ車で60分!近場に秘湯点在。
リピーター多し!ファミリーにもお薦め!
夏は星とホタルと川遊び。冬はスキーと温泉。大自然を満喫!夜はゆったりしたペンションのダイニングでコース料理を楽しみたい。
会津高原リゾートイン台鞍
〒967-0026 福島県南会津郡田島町針生昼滝山857-150
↑ホテル外観
会津田島駅から車で20分。静かな山間に佇む、高原ホテル
尾瀬や駒止の自然散策の拠点に、テニスなどのスポーツ合宿に、子供たちと自然体験を楽しみたい方の家族旅行におすすめのホテル。冬には目の前のだいくら山スキー場で、ウィンタースポーツも楽しめる。
会津若松ワシントンホテル
〒965-0024 会津若松市白虎町201
↑会津若松駅より徒歩3分の好立地
朝食バイキングが好評で入りやすいホテル
会津若松駅より徒歩3分の所にあり、ビジネスマンや観光客に親しまれ朝食バイキングが好評。
グリーンホテル会津
〒965-0037 福島県会津若松市中央3-7-23
↑ビジネス、観光に最適!
会津若松駅から徒歩5分以内という会津の玄関口に位置する
観光ルートの基点に、またビジネスマンの出張オフィスとして気軽に利用できる宿。客室の浴室のほか、フリーバスも完備。夕定食は日替わりメニューとなっており、家庭料理を味わう事ができる(別料金)
源美の宿 会津屋
〒329-2921 栃木県那須塩原市塩原733番地
↑まさに塩原の隠れ宿
入るたびに美しく!日本四大美人の湯☆しっとり優しい美肌美人の宿
日本四大美人の湯に認定された正真正銘“美肌美人の湯”で休日を満喫!湯上がりは創作料理を。美肌湯を用いたエステや女性専用フロアも魅力です!
ホテル ルートイン会津若松
〒965-0026 福島県会津若松市平安町1-5
↑観外
平成18年11月オープン!ビジネス、観光の拠点にピッタリ
ルートイン134店舗目のホテルが会津若松にオープン!一年を通じ彩り豊かに映し出し美しい街です。大浴場も完備、旅の疲れは当ホテルでお癒しくださいませ。スタッフ一同心よりお待ち申し上げます
ホテル・アルファ-ワン会津若松
〒965-0041 福島県会津若松市駅前町5-8
↑aizuwakamatu
JR会津若松駅の直ぐ隣。官公庁・繁華街へは車で約3分。
全室インターネット接続無料・冷蔵庫・ウォシュレットトイレ・ズボンプレッサー完備。ホテルアルファ‐ワンで心を癒すひと時をお過ごし下さいませ。
旅館 上会津屋
〒329-2921 栃木県那須塩原市塩原745
↑「さびの湯」の大浴場。自家源泉が注いでいます
当館対岸の素晴らしい紅葉が見頃です。
塩原温泉の中心にあり、清流〔ほうき川〕沿いに建つ。モットーは清潔を。お風呂をはじめ、お食事処やロビー等、日本情緒あふれた、おちついた静かなお宿。摂氏65度という恵まれた天然温泉でごゆっくり
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日本の旅 関西を歩く 倒幕を果たした戊辰戦争の跡をたどる(by さすらいおじさんさん)
京都で勃発した鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい1868年1月27日)は、倒幕を果たした戊辰戦争(ぼしんせんそう1868−1869年)の火ぶたを切った戦闘だ。新政府はどのように倒幕を成功させたのか、プロセスを追ってみた。
薩摩藩の大久保利通(おおくぼ としみち1830−1878年)や公家の岩倉具視(いわくら ともみ1825−1883年)らの策略で1868年1月3日に発せられた王政復古の大号令により、15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ1837−1913年)に対し辞官納地が命ぜられ、旧幕府旗本や会津藩の過激勢力は、いきりたった。このとき徳川慶喜は臣下をおさえ、総裁(首相)の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう1835−1895年)に恭順の意思を示すために京都の二条城から大阪城へ退去したものの「領地返上」には応じなかった。
強硬派・大久保利通らは慶喜の見せかけの恭順を責め即時倒幕を主張したが、松平春嶽(まつだいら しゅんがく1828−1890年)、岩倉具視ら多数は「徳川家の領地を調べ、政府会議をもって確定する」というおだやかな命令案に決定し慶喜の反応を見ようとした。
追い込まれた慶喜は旧幕府軍が官軍であると主張、勝手し放題の賊軍・薩摩征伐を名目に京都制圧をするために出兵、新政府の強硬政策に不満を持つ旧幕府軍主力の幕府歩兵隊、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組らも戦闘態勢を取った。
旧幕府軍の動きを反乱と決め付けた政府議定岩倉具視、政府参与の大久保利通らは徳川討伐を決し、にらみあいを経て1868年1月27日に「鳥羽・伏見の戦い」の火ぶたが切られた。
薩摩藩兵中心の新政府軍は5000名、旧幕府軍は15000名と数では旧幕府軍が圧倒していたが指揮官の不在・逃亡など統制されない旧幕府軍は混乱し土方歳三(ひじかた としぞう1835−1869年)率いる新選組さえも新政府軍(薩摩小銃隊)に敗れた。
1月29日には明治天皇(めいじてんのう1852−1912年)が小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう1846−1903年)に錦旗(にしきのみはた)を与え(岩倉具視・偽造説もある)、新政府軍が官軍、幕府が賊軍となった。まさに「勝てば官軍」だ。旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でもあった淀藩主・稲葉正邦(いなば まさくに1834−1898年)を頼み淀城入城を計るが淀藩は官軍・新政府と戦う意思がなく、賊軍・旧幕府軍の入城を拒んだ。旧幕府軍はやむなく淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃した(「淀の戦い」)が惨敗した。
幕府軍はさらに南に後退し、石清水八幡宮を奉じる男山と男山西側の遊郭がある宿場・橋本に土方歳三率いる新撰組を主力とする幕府軍の本隊が陣を張ったが対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り、旧幕府軍は総崩れとなって淀川を下って大坂へと逃れた(「橋本の戦い」)。
慶喜は大坂城に待機していたが、旧幕府軍の敗戦が決定的になると、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に逃げ帰り幕府軍の士気は一気に低下した。一連の戦いで新政府軍が優勢になり多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となり1868年4月5日には幕府側を代表する勝海舟(かつ かいしゅう1823−1899年)と新政府代表・西郷 隆盛(さいごう たかもり1828−1877年)が薩摩藩下屋敷で会談し江戸城無血開城を決定し5月13日に新政府への受け渡しが完了した。
江戸城無血開城完了後も新政府軍への服従を固辞する旧幕府軍によって、戊辰戦争は江戸市街での彰義隊(しょうぎたい)による上野戦争(うえのせんそう1868年7月4日)、白虎隊(びゃっこたい)の悲劇で語り継がれる会津戦争(あいづせんそう)、徳川家海軍副総裁・榎本武揚(えのもと たけあき1836−1908年)率いる箱館戦争(はこだてせんそう)などへと続くが1869年6月27日に榎本武揚が五稜郭を開城し戊辰戦争は終結した。
鳥羽・伏見の戦いは数では圧倒的多数ながら徳川260余年の慢心で統率力が弱体化した幕府軍に対し,知略を働かせた岩倉具視、大久保利通らの新政府軍が「勝てば官軍」を知らしめた戦いで、日本の新しい歴史を創った戦いであったといえるだろう。京阪伏見桃山駅近くには鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)の弾痕が残る料亭があり、激しい戦闘の様子を垣間見ることができる。
(写真は鳥羽・伏見の戦いの弾痕)
土佐の旅No8・・・大川筋武家屋敷(by 早島 潮さん)
平成20年11月4日(火)
昨夜は播磨屋橋周辺を散策した後、秋の夜長の楽しみの地酒と肴を買うためにコンビニエンスストアに立ち寄って、土佐鶴紙パック500mml入りと柿の種を求めた。翌朝食用の幕の内弁当も一緒に求めておいた。メタボ予防のためには酒と肴があれば特に夕食を摂る必要もない。晩秋の一日は日が短い。ホテルへ帰り入手した観光案内と地図を見ながら翌日の旅程を考えた。地酒を堪能しながら独りだけの静謐な時間を楽しんで21時に就寝した。旅先でも日頃の生活習慣を堅持することが健康保持の秘訣であると信じている。
5時半に目覚めたが未だ外は暗いので外出もかなわず、テレビを見ながらお湯を沸かした。昨夜の残りの酒を嘗めながらお茶を入れて弁当を食べた。朝のドラマ「だんだん」を見終わってからチェックアウトし大川筋の武家屋敷を訪ねた。
http://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/15/1503/ohkawasu/ 池田内閣に始まる高度成長時代、東京オリンピックの頃に日本の社会は激変した。古いものは進歩の大義の元に過半のものが廃棄された。高知でも時代の流れに同調して古き良きものが壊された。だが経済の進歩が足踏みした時、心ある人々は愚かな破壊行為を反省して古き良きものを評価する英知を失っていなかった。
高知城下町で唯一残っていた武家屋敷を保存しようと決意した有志の人々の活動が始まった。その活動の努力の足跡が保存されているのがこの武家屋敷である。
先日訪問した会津の大内宿や昔訪問して感銘を受けたドイツのローテンブルグ等の古い町並なども経済発展に取り残されたことが逆に幸いしたという側面があるにせよ、この武家屋敷と軌を一にした思想によって保存された文化遺産である。
武家屋敷で感銘を受けたのは台風の被害を最小限にとどめるために屋根瓦の形状を東西南北の方向に応じて変え瓦の葺き方を工夫したという知恵である。なにしろ一枚の瓦が職人の一月分の日当にも相当していた時代のことであるから感慨一入である。そして先人の努力の跡を後世に伝えようと自覚して行動に移した地域の有徳者に敬意を表したいと思った。
【旅行時期】2008/11/04~2008/11/04
【エリア】
高知市内
【テーマ】
【投稿者】
早島 潮
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会津(あいづ)
東北地方で、会津盆地を中心とする一帯。古くの陸奥国会津郡(会津四郡)。会津地方。(このページで述べる)
分割後の会津郡(現在の南会津郡、会津若松市)
会津若松市 会津若松の略称として「会津」と呼ぶ場合もある。但し、地元での略称は「若松」が一般的である。
(2005年3月31日)
会津(あいづ)とは、東北地方の一角で、会津盆地を中心として、猪苗代湖と越後山脈の間に位置する地方である。福島県西部に当たる。
かつては、四方を急峻な峠で遮られていたため、言語や風習や文化に、独特の物が残されていた。
名目上は陸奥国(東北地方太平洋側)に属するが、実際は奥羽山脈の西側にあって、盆地内の河川は日本海に注ぎ、気候も日本海側気候である。
会津の詳細